シュペルヴィエルの馬について

「動作」というタイトルのシュペルヴィエルの詩の始まりは—ひょいとうしろを向いたあの馬は / かつてまだ誰も見た事のないものを見た / 次いで彼はユーカリフスの木陰でまたくさを食い続けた。2つ段落を飛ばして、最後の4行は以下のようになります。それは、地球が、腕もとれ、脚もとれ、首もとれてしまった / 彫像の残骸となり果てる時まで経っても / 人間も、馬も、魚も、鳥も、虫も、誰も / 二度とふたたび見ることの出来ないものだった。

高校の現代国語の授業で討論した時、公害などの、人間による愚かな行為により廃墟となった地球(の予感?)を馬は見たのではないか、という意見が多かったことをおぼえています。が、この意見は、作品をありのままに読むというよりも、自分の頭の中にある思い込みにそうように解釈しただけです。「腕もとれ、脚もとれ、首もとれてしまった、彫像の残骸となり果てた地球」のことを作者は述べたかったのではありません。その馬の動作を描写したかっただけなのです。「描写したかっただけ」なのに、17行の完璧な言葉が必要だったのです。これを虚心坦懐に読めば心地よいのに、なぜ、わざわざまちがった解釈に飛びつくのでしょうか。

健康問題でもそうです。正しい知識はすぐそこにあるのに、目の前にあるウソの健康情報に簡単にだまされてしまいます。ウソの情報ほどおもしろそうなので、はやる気持ちを抑えられないのでしょうか?シュペルヴィエルの馬のことを思い出すたびに、健康になるためにも「読解力」(それとわずかばかりの心の余裕)が必要だなと思うのです。